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新刊 市民メディアの挑戦
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千葉県富津市マザー牧場で(09.05.31)

零細出版人の遠吠え

07/03 国際原子力機関(IAEA)の事務局長に日本人が選出されたとのことで、日本政府もマスメディアも大はしゃぎ。
再投票でようやく当選できた天野之弥・ウィーン国際機関日本政府代表部大使は、「日本は原子力の平和利用と核不拡散を両立しているモデルともいうべき国。その経験を世界に役立てていきたい」などと、とりあえずはソツなく語っています。けどホントに、そんなこと言えるのかな?
数日前、元外務省事務次官・村田良平さんが証言した「日米核密約」の存在は、「核拡散」そのものではないけれど、核をめぐって日本政府が公然と真っ赤なウソをついていることを、天下に知らしめました。
この密約の存在については、対米交渉関係者の証言からも、米側公開公文書からも、とっくのとうにウソがばれているというのに、日本政府の答弁は「密約は存在しない」の一点張り。今回も、外務官僚トップ経験者がきわめて具体的に証言しているというのに、いつもつまらなそうに記者会見を続けている河村官房長官は、いつにも増してつまらなそうに、「密約は存在しない…(ムニャムニャ)」と決まり文句を繰り返すばかり。
こんな、閻魔様にも顔向けできないような政府の出先の人が選任されたからといって、北朝鮮やイランの核に揺れる世界の「核の番人」が務まるのかどうか、きわめて疑わしい。

07/02 「読者をバカにする」というのは、べつに『週刊新潮』の専売特許ではありません。それには、また違ったタイプもあるのです。
とくに女性誌など、タイアップ記事やら、広告スポンサー提供の生活グッズの付録やらのてんこ盛り。「これが雑誌か!?」と、思わず腰を抜かしてしまうほどです。本記の内容はそっちのけに、「今月はどの "擬餌針" で読者を釣ろうか?」といったことばかり考えている「編集者の堕落」が透けて見えます。
雑誌広告がなかなか集まらない昨今、なりふり構わず何が何でもその分野の「一番誌」にのし上がりさえすれば、広告収入はおのずとついてくる、ってな魂胆です。嗚呼!
こんないい加減な雑誌づくりをしていては、早晩、読者に飽きられてしまうのは見えています。あるいは、タダで見られるインターネットや、街で配られるフリーペーパーが、少しはましなコンテンツでも提供すれば、そんな雑誌はたちまち駆逐されてしまうことでしょう。
読者をバカにし、読者をダメにし続けている雑誌… 「そんなものはいらない!」と、本気で思うんですがねぇ。

07/01 確かに、電車の中で週刊誌を読んでる人はめっきり少なくなりました。それに代わって座席でも吊り革でも、ネコも杓子も聖徳太子のような格好をして、ちっちゃな画面をのぞき込んでいます。
でも、週刊誌がかつてのような力を失ったのは、べつにインターネットやケータイだけのせいでもないでしょう。その根底には、ノンフィクション作家・佐野眞一氏の言うように、「編集者の劣化」があるのだと思います。
朝日新聞阪神支局襲撃事件をめぐる『週刊新潮』の虚報問題は、そのお粗末の最たるものでした。どうみてもウソとしか思えない「告白」を、ウラも取らず、ご丁寧に4回にもわたって連載。おまけに、ボロが出てからの編集部の往生際も、みっともないほど悪かった。これがジャーナリズムだなんて、とうてい言えません。
ついでながら、『週刊新潮』のお粗末の根本的な原因は、「読者を小ばかにした編集方針=視線」にあるのだと思います。同誌はふだんから、社会的弱者を見下し、叩くことによって読者にある種のカタルシスを覚えさせる、といった趣味の悪い手法を一貫して採ってきました。まるで、「いじめ」の論理にそっくりです。
確かに、弱者が叩かれるのを見るために、財布から三百数十円を出す読者も大勢いるのかもしれません。しかし、そこに虚偽があり、それを喜んで見ている当の自分も実は、叩かれている人と同じ立場の弱者であることに気づいたとき、読者は次第にそこから離れて行くことになるでしょう。

06/30 山さんは、「週刊誌力」のもうひとつの大事なポイントを挙げます。「官に縛られない自由な媒体、言論機関」ということです。

「新聞や放送、通信などのメディアは、立法、行政、司法、諸団体などの組織の中に、『記者クラブ制度』という便利な、相互依存の関係を築いている。お互いの関係性から生じる "しがらみ" は時として、政治家個人や諸官庁の高級官僚、○○協会の不祥事などを糊塗してしまいかねない」(p.5)

というわけです。
しかし、肝心のここんところが、近年ぐらつきはじめているのです。週刊誌に対する目の玉が飛び出るほど高額の名誉棄損訴訟が乱発され、賠償金額は高騰するわ、記事作成にかかる「出版社社長の管理責任」が問われるわ、果ては「当該記事そのものの取り消し広告の掲載」が命令されるわで、さすがの「やじ馬ジャーナリズム」もすっかりビビってしまい、日に日に斬り込みが弱くなるばかり。
「週刊誌は臆病になった」(田原総一朗氏)などと言われる所以です。

06/29 『総合ジャーナリズム研究』(東京社)という、1ページにこれ以上たくさん字を詰められるか!? と、いつも感心させられつつも、目をしょぼしょぼさせながら読まざるをえない専門誌があります。その2009年夏号の特集は、「『週刊誌』が何をしたのか:雑誌ジャーナリズムの昨日、今日、明日」でした。
今日の「出版不況の牽引車」とでもいえそうな雑誌の世界ですが、たとえば週刊誌の発行部数でみると、昨08年は11億7400万部で、95年19億4300万部の6割にまで激減しています。
そんな「落日の週刊誌」(?)の現状を横目でにらみながら、日本雑誌協会編集倫理委員長の山了吉さんが、「『週刊誌力』とは何か」を論じています。

「週刊誌は、新聞や放送、通信では知り得ない情報を商品として売り、買ってもらって初めて成り立つ商売である。誰もが知っている情報に購入価値はない。財布から三百数十円を出してでも見たい、読みたい記事があるから成り立つのである。…だからこそリスクを背負ってでも、あえて記事にする。もちろん裁判沙汰は避けたいし、人権尊重、名誉やプライバシーも侵害したくはない。しかし、その相反する微妙な部分にこそ真相が隠れているケースは多いのである。そこにこだわる記事作りに『週刊誌力』が宿るといえよう。」(p.5)

06/26 自民党都議候補の応援に入ったアッソーさん、何をトチ狂ったか、「惜敗を期して…」(?)とダミ声でブッたそう。これには当の候補者も、さぞかし肝を冷やしたことでしょう。
けさの朝日新聞「声」欄に、同じく首相の「ウケ狙いのギャグ演説」に呆れた読者の投書が載っていました。「これじゃヨシモトとおんなじだ!」ということでしょう。そんな小手先で人気回復を図ろうってなことばかり考えているものだから、本職の(?)「お笑い知事」に足下を見透かされ、「次期総裁候補にしてくれるなら自民党から衆院選に出てもいい」なんて言われてしまうわけ。
「その国の選挙民の程度にふさわしい首相」なんて言い方もありますが、やはり、どんな立場であれ、そこに求められる「器」というものがあるのではないでしょうか。いやしくも一国の首相ということでしたら、せめて最低限の「知的・道徳的見識」を持ちあわせていただきたいものと思うのですが、この国では不幸なことに、そのような「器」には久しくお目にかかっていません。