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路傍のいろどり(12.04)

零細出版人の遠吠え

05/18 「スラップ」といえば、雑誌へのコメントをめぐり「ヒットチャート」のオリコンが、フリージャーナリスト・烏賀陽(うがや)弘道さんを訴えた「オリコン・烏賀陽裁判」(08年東京高裁で和解)や、同じくフリージャーナリストの黒薮哲哉さんに対して読売新聞社が行なった一連の提訴が記憶に新しいところです。
ここで見逃せないのは、いずれのケースも、「標的」にされたのが相対的弱者としての「フリージャーナリスト」だという事実です。しかも、黒薮さんのケースでは、「1千万部」を誇ったあの「巨人メディア」が、同じ人を2度も訴えたのです。このあたりからも、かのメディア企業の「傲慢さ」が窺えるようです。
そのひとつが「押し紙著作権裁判」です。「押し紙」というのは、新聞社が新聞販売店に対し実際の購読部数以上の部数を押し付けること。新聞業界のこの悪弊を追及してきた黒薮さんが、販売店への読売の「催告書」を自分のHP「新聞販売黒書」に掲載したところ、読売新聞西部本社法務室長が「著作権侵害」だとして東京地裁に「差し止め請求」をしたというもの。結果は、控訴審を含め「大きな巨人」読売の2連敗でした(09年)。
それだけではありません。なんと読売新聞社は、黒薮さんを「名誉毀損」でも訴えているのです(こちらの方は目下、さいたま地裁で係争中)。「著作権侵害」だとか「名誉毀損」だとかは、実はとってつけたようなお話。「巨人メディア」のこの一連の動きを見ていると、「押し紙」問題というのが新聞社(読売だけじゃありませんよ!)にとってのアキレス腱であることが、よーくわかります。
「批判つぶし」に司法を使うというのは、どうやらTVドラマ「リーガル・ハイ」の世界だけではないようです。

05/17 近年あちこちで、「スラップ」という威圧的・恫喝的な訴訟が横行しています。英語では「SLAPP=Strategic Lawsuit Against Public Participation」(対公共関係戦略的法務)というのですが、大企業や権力など、いわば優越者が、対抗勢力に打撃を与える目的で行なう一種の「いやがらせ」行為です。
たいていは原告より経済的に力の劣る弱者が標的にされるため、訴えられた側は時間的・経済的に多大な犠牲を強いられることになります。ですから訴えた側は、たとえ敗訴しても相手側に一定のダメージを与えることができ、「いやがらせ」目的は達成できるというわけです。
そんな卑劣な裁判が、「ナベツネ」氏率いる読売新聞社によって起こされました。今回「スケープゴート」にされたのは、わが零細出版仲間の「七つ森書館」。「出版契約無効確認請求事件」ということなのだそう。
昨年5月に両社で正式出版契約を取り交わしたうえで進めてきた企画なのですが、その本の著者が何と「読売社会部清武班」。そう、その年の秋に突然、「読売巨人軍専務取締役球団代表兼GM・編成本部長・オーナー代行」を解任された清武英利氏だったのです。
さすがは「巨人」です。言うことがまた振るっています―。「読売新聞社において、出版契約は局長が了解・決定するのが通例であるが、今回は…権限を有していない社会部次長が署名しているから無効である」と。いわば自社の「内規」を他者にまで押し付ける格好で、すでに締結済みの契約の「無効確認」を請求する、といった塩梅です。
いかにも「ナベツネ」的、あまりに「ナベツネ」的なごり押し、とでも言うべきでしょうか。

05/16 「祖国復帰」を果たしても、沖縄の現状は一向に変わりません。「"日本国憲法の枠外"に捨て去られた地域」のままでした。そのことを確認するために、鈴木耕さんは、沖縄本島最北端の辺戸岬へと向かいます。
そこには「復帰」4年後の1976年に「沖縄県祖国復帰協議会」が建立した「祖国復帰闘争碑」があるのです。「全国の そして世界の友人へ贈る」と題された碑には、何も変わることのない「復帰」後の状況への沖縄県民の落胆と怒りの感情が、ストレートに書きつけられています―。

「…1972年5月15日 沖縄の祖国復帰は実現した/しかし県民の平和への願いは叶えられず/日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された/しかるが故に この碑は/喜びを表明するためにあるのでもなく/まして勝利を記念するためにあるのでもない/闘いを振り返り 大衆が信じ合い/自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり/人類の永遠に生存し/生きとし生けるものが 自然の摂理の下に/生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある」

しかし、悲痛なほどのこの「警鐘」も「本土」に届くことはありませんでした。「復帰」後のいまも、日本の陸地面積の0.6%でしかないこの島に、在日米軍基地の74%が居座ったまま。「日本の安全に米軍の駐留が必要だ」と主張しながら、「本土」に移そうとは決してしない。それを「沖縄振興」名目のカネのバラマキでごまかす日本政府の姿勢は、40年間この方変わらない―。これを「差別」と言わなくて何でしょう?
沖縄と原発… 一見縁遠い2つの問題ですが、まったく同じ「差別の構造」をここに見ることができます。

05/15 「沖縄"復帰"40年」。「日本国憲法の下での平等」を期待しての「祖国復帰」でしたが、米軍基地の固定化、米軍絡みの相次ぐ事故や犯罪など、「本土並みになったのは、車の左側通行だけ」などと揶揄されるような事態が続いています。
「祖国復帰闘争」のなかでは、『沖縄を返せ』という歌がよく歌われました。「我らのものだ沖縄は 沖縄を返せ 沖縄を返せ」とリフレインします。「労働者作曲家」荒木栄の作品でしたが、40年前の「祖国復帰」とともにその使命を終え、もう歌われることがなくなりました。
ところが1995年の米兵による少女暴行事件が起こった頃、八重山民謡の第一人者・大工哲弘さんがこの歌をリバイバルさせます。しかしそれは、「沖縄を返せ 沖縄を返せ」ではなく、「沖縄を返せ 沖縄返せ」でした。
沖縄への著者・鈴木耕さんは、大工によるこの意味転換を次のように読み解きます―。

「沖縄を返せ―。それは、日本への復帰を望んだ歌だった。しかし、復帰の希望は現実の前にあまりにも脆く崩れ去った。/大工はそれを、『沖縄へ返せ』と歌い替えた。/沖縄へ―。『日本への期待はもう捨てる。沖縄は、我ら沖縄人へ返せ。我らはもはや日本には期待しない』
切ないほどの、絶望の中の自立。…大工が革命的に意味転換したこの歌は、私たち本土日本人(!)を痛烈に撃つ」(同書、pp.38-39)。

05/14 昨夜、NHK・BS1でドキュメンタリーWAVE「“脱原発”に揺れる町〜ドイツ・世界最大の原発跡地〜」が再放送されました―。
ドイツ北東部の町ルブミンは、東ドイツ最大の「原発城下町」でした。それがドイツ統一後、「ソ連製の原発は危険」ということで閉鎖されます。自治体財政も雇用も原発に依存していた町は、突然、生命線を断たれてしまいます。このあたりはどこの国も同じということでしょうか。
町は近隣自治体と手を結んで国の財政支援を引きだし、原発跡地の再開発に乗り出します。こうしてそこは、風力発電機器メーカーなどの工業団地に変貌します。
しかし、廃炉作業というのは長い年月を要するもので、すぐそばではいまだに原発の解体作業が続いています。おまけに国の脱原発政策のあおりをくらって、併設の中間貯蔵施設にはドイツ全土から放射性廃棄物が運び込まれることになり、町は蜂の巣をつついたような騒ぎに。
「脱原発」「廃炉」と言っても、それを決めれば事足りるというわけではもちろんなく、「その後こそが大変なのだ」ということです。日本でも今後、「再稼働」の如何にかかわらず、遠からず「廃炉問題」がめじろ押しになります。だとすれば、もうこれ以上厄介物を生み出し続けるのはやめにしなければならない、というのが賢明な選択なのではないでしょうか。

05/11 3・11後、酒席の話題はもっぱら原発。「ウチのかみさん、このごろ平気で輸入食品を買うんだよね」―。昨夜はこんな話が出て、「あっ、ウチもおんなじ」。
スーパーの野菜売り場に並ぶシイタケも、つい先だってまでは「中国産は残留農薬が心配だ」なんて言って敬遠していたのに、いまでは何だかそっちの方が安全に見えてきてしまうから、いやになります。このままでは「地産地消」の掛け声も、か細いものになってしまうでしょう。つくづく「原発が奪ったものは大きい」と痛感させられます。
そんななか市民グループがきのう、「原発住民投票」を求める32万人余りの署名を東京都知事に提出しました。受け取った石原知事は「センチメントの域を出ない」なんて言い放っているようですから、反対意見を付して議会へ提出するつもりなんでしょう。

「首都東京は、福島県や新潟県などの地方に原発を押しつけ、その電力を大量に消費して繁栄を築いてきた。東京都は東電の大株主でもある。もはや都民は原発に対して無関心でいてはいけない。
住民投票が実現すれば、一人ひとりが問題意識をしっかりと持ち、意思を示す。その代わり結果について責任を負う覚悟が求められる。法的拘束力はないが、歴史を見れば民意は重い。…
地域ごとに住民の思いを真摯にすくい取る努力が大切だ。住民投票の機会を全国各地に広げたい。」

けさの東京新聞が掲げる社説に全面的な賛意を表します。

05/10 「やっぱり」というべきか、それでもやはり実際に数値を突きつけられると、底知れぬ恐ろしさを感じざるをえません。
けさの朝日新聞によると、「東京湾の海底の一部で、放射性セシウムの量が昨年夏からの約7カ月間に1.5〜1.7倍に増えていることが近畿大の調査でわかった」といいます。東電福島第1原発が広範に撒き散らしたセシウムが、雨などで流され、川を伝って海に流入し続けているからでしょう。半減期の長い放射性物質は今後もいっそう堆積するばかりで、この先何十年にもわたって汚染が続くことになります。ひょっとして、水俣湾の比ではなくなるかもしれません。近海で獲れる魚介類の汚染が心配されます。
昨今流行りの「除染」というのは、結局のところこのようなものでしかなく、その意味が根本的に問われるところです。そう、放射能汚染というのは、現代の科学技術をもってしても消すことができないのです。
そうであるかぎり原発などに手を染めてはならない、というのは理の当然ではないでしょうか、「再稼働論者」のみなさん!