近刊 【新版】災害情報とメディア
  「原発震災」はデジタル時代の災害情報の有り様を根底から変えた!

新刊 震災・復興の社会学:2つの「中越」から「東日本」へ
  震災被災者らの生の声を通じて知る「人と人のつながり」の大切さ!

新刊 UD社会:3・11が問いかけるもの
  「無縁社会」から、人々が 連帯する「UD社会」への転換を!


南房総・鋸南町ののどかな山里(12.01)

零細出版人の遠吠え

02/06 日米両政府が、これまで「パッケージ移転」がいわれていた在沖米海兵隊のグアム移転と米軍普天間飛行場移設とを切り離し、グアム移転を先行させることにしたという。
しかし、その規模がこれまで「在日米軍再編のロードマップ(行程表)」で明記されていた約8000人から縮小され、約4800人とされたことから、普天間が固定化されてしまうと心配する向きもあるようです。でも、ひょっとしてコレ、辺野古移設を推進させるための世論操作の一環なのかもしれません。
米海兵隊のグアム移転計画の真相については、元宜野湾市長・伊波洋一さんがつとに指摘するところです―。

「アメリカはすでに、グァムへ沖縄の海兵隊部隊を移すことを決定しています。…沖縄の海兵隊の家族が9千名を超えた年は、1972年に沖縄が日本へ復帰してから今年(2010年)までに、たった3年間しかなかったのです。そのほとんどを、今度はグァムへ移そうとしています。もう常駐部隊は沖縄には必要ではなくなった、というのが米側の認識でしょう。…そうなれば、普天間の『代替基地』というのは必要なくなる。当然、辺野古に新しい基地を造る必要はありません」(沖縄へ、pp.115-116)。

このことはこれまで、なぜかあまり問題にされてきませんでしたが、これが米軍再編の流れなのです。そして、問題の本質は、次のところにあることを知るべきでしょう―。

「沖縄に新しい基地を建設することになっても、アメリカはほとんどお金を出しません。米側の資料には『グァムには移るけれど、日本から財政的支援を受けながら沖縄での長期駐留用基地を保証されるという、最良の環境を日米間の交渉でうまく作り上げることができた』というようなことまで書かれています。日本の丸抱えで新基地を建設してもらえる。その上に財政支援まで約束される。アメリカにとって、こんなおいしいことはないでしょう。
アメリカが日米合意にこだわるのは当然です」(同、pp.117-118)。

02/03 で、その「世相」なんですが、どちらを見てもよろしくありません―。もともとよくなかった政治は、もう完璧に信頼を失ってしまった。放射能禍のもと、社会には不安や苛立ちばかりが高まっている。「経済大国」を誇ってきた頼みの経済も、ここにきてもうメタメタ。
企業の3月期決算が続々発表されています。かつての「優良企業」もすっかり精彩を欠き、まるで悪ガキが通信簿を受け取ったときのよう―。

 シャープ:純損益2900億円
 ソニー:同2200億円
 マツダ:同1000億円
 住友金属工業:同550億円… etc.

もっとも零細出版人なんぞ、そんな元優良企業をあげつらえる分際ではないのですがね。どちらかといえば、「大赤字みんなで渡れば恐くない」「お仲間が増えた」といった心理が働いているのでしょう。世の中全体が不景気になって真っ先に削られるのは本代じゃないか?と思えるのにね。
こんな社会的気分がファシズムを呼び込むことになるのかもしれません。
用心、用心!

02/02 「首都圏直下型大地震」に加え、このところ富士山麓・山中湖あたりを震源とする比較的大きな地震が相次いでいます。さっそく週刊誌がこの問題で特集を組んでいます―。

「告発シミュレーション/政府の想定は甘すぎる/M8M9大地震 日本破滅 最悪の1週間はこうなる!…気象庁発表「富士山噴火」は本当にないのか」(週刊文春)

「4年以内に70%!/『東京直下型大地震』死中の活…山梨県地震頻発『富士山』噴火ならば東京に起きること」(週刊新潮)

「【ぶち抜き大特集】引っ越しますか?/『確率7割』もう避けられない東京直下型大地震/『自分だけは助かる』―根拠なくそう思っている人がいちばん危ない」(週刊現代)

地震というのはもちろん自然科学的な現象なのですが、他方ですぐれて社会的な事象でもあることを知る必要があります。
たとえば関東大震災50年の1973年、「12月1日に大地震が起こる」との流言が全国的に広がったことがあります。この噂、元はといえば、さる民間の「科学者の予言」に端を発するのですが、マスメディアが面白おかしく伝えるうち見る見る広がって行ったよう。
平塚千尋さんは前出の近刊書の中でこう書いています―。

『いったい日本はどうなるのだろうか』この年のCM『73年流行語』のひとつである。1973年はまさにこの流行語で象徴的に表わされる年であった。…平時ではあった。しかし、『砂上の楼閣』ならぬ『油上の繁栄』が足元から崩れ、日本沈没の感が漂う―12月1日は社会的にきわめて不安定な心理状態の中にあった。まさに疑心暗鬼、流言蜚語が飛び交うにふさわしい状況だったのである」(前掲書、pp.122-125)

何だか昨今の世相とよく似ていますね。

02/01 先だって東大の研究者が「首都圏直下型地震」について、「マグニチュード7以上の地震が4年以内に70%の確率で起こる」と発表し、肝を冷やしたばかりですが、今度は京大防災研究所の研究者が「5年以内に28%、30年以内で64%」との計算結果を発表しました。
ではこれで、枕を高くして寝られるようになったのでしょうか? 確率論をむきだしにされたりすると、市井の民としては半ば狐につままれたような気にもなるのですが、どうやらこれは、地震予知をめぐるすったもんだの末、ようやく立ち至った発表方式のようです。
1979年に始まった地震予知体制ですが、その後続々予知・予測のできなかったM7.5以上の地震が相次ぎます。そこで「白か黒か」の予知を断念し、長期間の予測を発生確率で評価するようになったようです。今月20日刊行の平塚千尋さんの【新版】災害情報とメディアは、そのあたりの事情を詳らかにしていますが、こんな悩ましさもあるようです―。

「人々は地震が起きるのか起きないのかを知りたがっている。しかし科学者によって見方が異なる。科学の名において、さまざまな事実がさまざまに解釈され、メディアがさまざまな形で伝える。…
台風や大雨洪水といった気象警報、アメリカにおけるハリケーン予報などでは空振り、誤報、当たり外れははっきりしている。天気予報や降水確率予報は期間が限定されており、発表者、送り手と受け手の間にも予知情報をめぐって共通のルール、暗黙の了解がある。期間も短いから避難をはじめ防災対策もできる。経済的にも社会的にも対応が可能だし、生活上も苦労や我慢を受忍できる。ところが地震予知のグレー情報では、期間が長くなり、誤報とも空振りともいえない状況が続くことになる。かなり時間が経って初めて誤報、空振りだった、あるいは地震が起こった後になって、的中と言えることになりかねない。」(同書、pp. 225-226)。

01/31 3・11後さまざまな分野でこれまでの日本社会のあり方が問われ、恐らくは多くが良い方向で見直されつつあるというのに、「教育」の分野だけが何やら怪しげな方向を向いて暴走しつつあります。
そのひとつが、きのう東京地裁で出された判決―。
元都立三鷹高校校長・土肥信雄さんが、職員会議での挙手や採決を禁じた東京都教育委員会の通達を、教育への「不当な支配」だと訴えていたのに対し、同地裁は、「職員会議を主宰する校長の裁量権を侵害したとは言えない」として土肥さんの請求を棄却しました。
民主主義を教え、率先してそれを実践すべき教師が手を縛られ、挙手も採決もできないとなれば、いったい学校はどんなことになるのでしょう。教師らは自分の頭で考えることをやめ、ひたすら上の者に従う「ヒラメ」(イエスマン)ばかりが増殖することになるでしょう。いや、教育現場はすでにそうなってしまっているのかもしれません。
おまけに、大阪の「ハシズム」です―。
2月府議会に提出予定の府教育基本条例案に、ついに「教育目標の最終決定権者を首長とする」と明記するまでに至っています。そればかりか、教育委員の罷免規定までも盛り込まれています。
これらが教育への政治の「不当な介入」「不当な支配」でなくて何でしょう? こうした方向については、石原・橋下会談で東京・大阪が連携してやっていくことを確認しているとのこと。いよいよ事態は重大な局面を迎えています。

01/30 長年「原発の電気は使わない!」と意気がってきたリベルタ子ですが、実はそこにも悩ましい弱みがありました。
いくら太陽光発電で自分んところの使用電力を賄えても、お天道さまが陰ればそれも叶いません。この国では一般家庭が電力会社を選ぶことはできないので、お天気の悪い日や夜間には結局、地域独占の電力会社の原発由来の電力に頼らざるをえません。ですから、しばしば家の発電モニターを眺め、発電量が電力使用量を大きくしのいでいるのを確かめては溜飲を下げる、というのがせいぜいのところでした。
ところがきのう朝日新聞でドイツの電力事情についての記事を読んで、「いやそんなに捨てたものでもないぞ」という気になりました―。

「欧州の電力供給は、海に例えられる。張り巡らされた送電線から電気が1つの市場に流れ込むからだ。原発も火力も風力も、色がついていない電気が集まり、企業や過程に届けられる。…『エコ電気を買う人が増えれば、それだけ海に流れ込むエコ発電が増え、原発の電気は減る』。電気も消費者の意をくんでつくる商品にほかならない」(「電力会社自分が選ぶ」)。

なーるほど! そう考えてみれば、市民ひとりひとりの日常的なエコ努力が「脱原発」につながっていくことを十分実感できるというものです。