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抜粋 まえがき―信頼される報道のために―
メディアの信頼度
あなたはメディアが伝えるニュースをどこまで信用していますか?
そう問われて、おそらく多くの人たちは、日頃、新聞やテレビを通じて得ている情報をおおむね正しいと信じている、と答えるだろう。日本新聞協会が定期的に行なうメディアの信頼度調査では、新聞の伝える情報への信頼度はきわめて高い。毎年秋の新聞週間に合わせて『読売新聞』が伝える読者調査でも、新聞の報道を「信頼できる」と見なしている人の割合は八割を超えている。テレビや雑誌の報道も、新聞ほどではないにせよ、信頼度は決して低くない。
それはそれで間違ってはいない。しかしいま少し注意深く報道の中身を点検すると、いくつかの問題も浮かび上がってくる。ニュース報道で最も重視されるのは、正確さ、公正さである。そのためにメディアが十分な注意を払っているかとなると、疑問が残る。メディアの伝える事実に誤りはないか。ニュースが役所や大企業の流す情報の受け売りになってはいないか。政府や政治家の宣伝にうまく利用されていることはないか。これらの疑問にはっきりノーと断言できる報道がなされているだろうか。
むろんメディアも、それなりの努力と工夫を重ねている。日常の報道実務のなかで、確認や検証の作業がいちだんと厳しくなっている。ここ数年、多くの新聞社が自社の報道を検証するための外部識者による「委員会」を設けたり、放送界が苦情処理のための第三者機関を発足させたりしたことにもそれが表れている。ただそれでも、先の疑問は消えない。
より正確で公正な報道を実現するために、現在のニュース報道に何が欠けているのか、何が問題なのか。その答えを考えてみようというのが本書の狙いである。答えは単純ではない。が、問題解決の手がかりの一つは、意外に手近に隠れている。これまで日本のメディアの現場で正面から議論されることのなかった、情報源の扱いがそれである。
2010年1月、小沢一郎・民主党幹事長の政治資金をめぐる一連の報道で、突如、政治問題化したのがこの情報源の扱いだった。報道各社の伝えたニュースのほとんどが「関係者」からの情報にもとづくものだった。情報の中身から「関係者」が事件を捜査している東京地検特捜部と「関係」のあるものと容易に推測できた。しかしメディアはかたくなに、「関係者」がどのような立場にある情報源なのかを明らかにしようとはしなかった。民主党側からは、情報源をあいまいにしたニュースの伝え方に、公正を欠くと批判する声があがった。読者からも新聞の投書欄に同じ批判が寄せられた。
情報源をあいまいに伝えるこうした報道は、なにもいまに始まったことではないし、例外的なことでもない。これまで何十年も続けてきた報道現場の慣行が、この報道をきっかけにやり玉に挙げられたにすぎない。しかしそのことは、きちんとした議論もないまま放置されてきた情報源の扱いをめぐる問題が、ようやく無視できないところまで顕在化しつつあることを裏付けている。
後絶たぬメディア批判
この種の批判にかぎらず、報道に対する読者、視聴者の目はきわめて厳しい。批判の矛先は報道の内容から取材記者の態度まで、報道活動の広い範囲に向けられている。一つの理由は、テレビの中継技術の進歩やインターネットの普及でメディアによる取材過程が読者、視聴者の目に触れやすくなったこと、さらに、市民の側の権利意識の高まりから、ニュースの内容や記者の言動に以前より敏感に反応するようになったことがあげられる。
しかし批判が絶えない最大の理由はやはり、メディアそのものの仕事にある。事実を誤って伝える、大小さまざまな誤報がある。誤報とはいえないまでも、内容に正確さを欠く報道はさらに多い。他人や他社の記事を無断で使う盗用もある。メディアの側はこうした問題を未然に防ぐ努力を重ねてはいるものの、十分に効果を上げているようには見受けられない。
問題は、正確で公正なニュース報道をするために、万全の配慮がされているのかどうか、である。過去に厳しい批判を受けたいくつかの報道の事例を振り返ってみても、必要な努力が十分になさされていたとは思えない。その一つ、一九九四年のいわゆる松本サリン事件をめぐる報道は、いまも記憶に新しい。この報道で、ほとんどのメディアが半年以上にわたって間違った情報を流し続け、事件の被害者である男性を容疑者扱いした。メディアは、警察の発表や非公式な情報のリークを十分な検証もせずに伝え、農薬からサリンがつくられるかのように報じたのである。
メディアによる誤報の原因がどこにあったのか。警察側からの不正確な情報提供、その確認や検証を怠ったメディアの拙速の判断、現場の記者や編集者にそうした判断を促したメディア間の激烈な競争などが指摘できる。この取材、報道の過程で誤報を防ぐ手立てがまったくなかったわけではない。もし報道現場の記者、編集者の1人ひとりがいま一つ、伝える情報に責任を持つ意識を備えていたら、こうした誤った情報が長期にわたって繰り返し伝えられることは防げたはずだ。しかし実際には、そうしたチェックは機能しなかった。
どうすれば情報に責任を持つことができるのか。取材活動に携わる記者や記者から送られてきた原稿をチェックする編集者(デスクと呼ばれることが多い)は、取材した内容に間違いがないか繰り返し確認を迫られる。不確かな情報は再度取材する。少しでも疑問があれば別の取材源にあたって裏付けをとる。誤報を避けるためのそうした作業は日常的に行なわれている。しかしそれでも間違った情報が流れ、訂正やお詫びを紙面に掲載する羽目になる。
報道が人間の営みである以上、不注意や思い違いによる誤りが生じることは避けられない。が、誤りを最小限に食い止めるための手立ては講じておかねばならない。現在の報道現場でそのための手立てが十分にとられているかとなると、疑問がある。できるだけのことをしているとは思えないからである。
情報に責任を持つ
ニュース報道に携わる側が、伝える情報の内容に責任を持つための有効な手立ての一つに「情報源の明示」がある。情報がだれからもたらされたものかを、できるかぎり明らかにすることだ。情報源が明示されるとき、情報提供者は自分の名誉にかけて情報の内容に責任を負わねばならない。取材先が責任を負って提供する情報にもとづく記事は当然、その内容に対する信頼性を高める。
しかし情報を提供する者が、自分の名前や地位が報じられることを常に受け入れるとはかぎらない。情報が公になることによって情報提供者が不利な立場に立たされることもある。そのような事情があるときは、情報源を伏せてニュースを伝えることもやむをえない。ただ情報源を伏せた場合、ニュースの信頼度は低くなる。匿名の陰に隠れた情報源は、情報の中身に問題があっても直接、責任を問われることがない。そのため、ともすれば情報が不正確になったり、無責任になったりする。
情報源を明示することは、記事に対する読者、視聴者の信頼度を高めるだけではない。記者に自分と情報源の間の距離を明確に意識させ、情報と情報源をより客観的な視点から見ることを可能にする。取材対象に情報源の明示を求めれば、取材対象と記者の間に緊張関係を生むことが予想される。しかしこの緊張関係こそが本来、より正確で公正な報道を担保するものであるはずである。緊張関係が失われると、両者の間に慣れ合いの空気が生まれ、取材や確認の作業がおろそかにされる傾きが強くなる。松本サリン事件のような大掛かりな誤報も、日常的に起きている小さな誤報も、その多くは情報源の明示を怠り情報源との間の緊張を欠いた取材環境のなかから生まれているといって言い過ぎではない。
記事の盗用や捏造といった、記者倫理の基本に反する行為も、記者に情報源の明示を厳しく求めることによって、完全に防ぐことはできないまでも、減らすことはできる。盗用記事や捏造記事が紙面に報じられるのは、煎じつめればデスクが情報源の明示の原則をおろそかにしたときである。
アメリカのジャーナリズムでは、原則として情報源を明示することがニュース報道の基本とされている。それでも『ニューヨーク・タイムズ』の若い記者による大掛かりな記事盗用・捏造事件(2004年)のようなことが起きる。原因は、担当のデスクがこの記者の記事の情報源について厳密な検証を怠ったことにあった。
日本では、情報源の扱いについて、アメリカの場合ほど厳しい考え方がジャーナリズムの世界でも広く受け入れられてはいない。情報源の扱いをめぐって議論がなかったわけではないが、あくまで取材・報道活動の手法に関わる末梢的な問題として意識されてきた節がある。そのためにこれまでのところ、ジャーナリズムの現場でこの問題が真正面から採り上げられることはなかった。
裁判員制度がきっかけに
ところが最近になって、この問題が報道の現場で注目を集めるようになった。きっかけをつくったのは、2009年5月に導入された裁判員制度である。制度の導入に先立って司法の側から、これまでの事件報道のままでは、裁判員となる人たちに予断や偏見を与える恐れのあることが指摘されたのである。
事件報道がとかく警察当局からの一方的な情報に依存しがちになるのは、ある程度やむをえない。しかし一方的な警察情報が、あたかも確定した事実であるかのような印象を読者、視聴者に与えかねない危うさがあることを、メディア側も認めざるをえなかった。そのためにメディア側は、これまでの報道のありようを見直し、制度実施後の報道の手引きとしてそれぞれの報道指針を策定した。この指針の中心的な項目の一つが「できるかぎり情報の出所を明示する」という考え方である。
これは日本の報道現場がようやく、より正確で公正な事件報道のために、情報の出所を明確にする必要を認めたことを意味している。これまであいまいにしてきた情報源の扱いについて、やっと改善への動きがきざしてきたといえる。
報道各社はすでに裁判員制度実施前から、それぞれが策定した新しい報道指針に沿った事件報道を展開していた。記事には、指針導入前のそれと比べて明らかな変化も読み取れる。ただ各社にほぼ共通するそうした文体上の変更で、事件報道の中身が実質的にどれほど変わったかは、議論の余地が残る。
情報源の扱いに関する問題は、事件報道だけにかぎらない。政治報道や経済報道など、他の分野の報道も本質的に同じ問題を抱えている。日本のニュース報道では、情報源をあいまいにしたり、まったく情報源に触れなかったりするものの方がむしろ多い。そのために、情報が誤っていても、ほとんどの場合、だれも責任をとる者がいない。
裁判員制度をきっかけに情報源の明示に取り組むなら、事件報道だけでなく、その他の分野の報道も含めた取り組みが当然、必要になる。しかしいまのところ、事件報道の見直しを他にも広げようという動きは乏しい。そもそもそうした問題意識が報道の現場に共有されているのかどうかも疑わしい。
しかしせっかく芽生えた改革への機会をむざむざと失うのはもったいない。歩みは鈍くとも、まずは事件報道での、より正確、公正な報道を定着させ、さらに他の分野での報道の改革に向けて取り組みを拡充して、ニュース報道全体の質の向上につなげる方向をめざしてもらいたい。本書は、そうした動きを微力ながら後押ししたいとの思いから書き起こしたものである。
報道の公正と独立はジャーナリズムにとって最も重要な価値である。情報源の扱いはその価値を守るための欠かせない手立てであり、報道の根幹にかかわる事柄である。これまでとかくおろそかにされがちだったこの問題を、あらためて真剣に見直す時期にきていることは間違いない。
及び腰の日本のメディア
筆者は35年ほど通信社の記者として報道の現場で働いたあと、13年ばかり大学でジャーナリズムを講ずる機会に恵まれた。この間、ジャーナリズムの問題をさまざまな角度から考えさせられた。日本のジャーナリズムにおける情報源の扱いが気になり始めたのは、海外特派員としてサイゴン(現ホーチミン)、ニューヨーク、ワシントンなどで勤務し、主としてアメリカのジャーナリズムのありようを間近で観察する機会があったためである。
アメリカのジャーナリズムは、日本に比べ情報源の扱いについてはきわめて厳しい指針を持っている。それでも、誤報や盗用・捏造といった不祥事が繰り返し起きている。厳しい指針を持つことだけでジャーナリズムの質を高めることが担保されるわけではない。
しかし、現場の記者たちがそうした指針を仕事の基本的な倫理規範として受け入れることで、より信頼性の高い報道を維持する努力が続けられている。指針が100%守られることはないにしても、それが、いいかげんな報道に走らないための有力な「歯止め」になると思われる。
日本のジャーナリズムにはそうした「歯止め」がない。日本新聞協会の倫理綱領は、本来その役割を果たしていいものだが、具体性を欠いていて、実効性はあまり期待できない。この倫理綱領が二〇〇〇年に改定されたのを受けて、いくつかの主だった新聞では、それぞれの「記者行動規範」ないし「行動基準」といったものを策定した。そこには情報源の扱いを含めた取材・報道上の守るべき指針を示しているものもある。
しかし、情報源の扱いに関するかぎり、アメリカの新聞の規範のような厳密で明確な考え方は示されていない。そこにも日本のジャーナリズムの、この問題に対する及び腰の姿勢が見て取れる。
これまでどっぷりつかってきた慣行を一気に改めるのは容易ではない。しかし目指すべきところが視野にあるのなら、その目標に向けて一歩でも二歩でも踏み出すべきだろう。裁判員制度の実施を契機に、ジャーナリズムの報道改革が動き出すかどうか、報道現場の意思が試されるときでもある。
いま一つ付け加えるなら、ニュース報道の質の向上はメディアの力だけで実現できるものではない。良質のジャーナリズムを求める読者、視聴者があってこそ実現できるものである。市民から絶えずよりよい報道への要求が出されていなければ、ニュース報道も商業主義、センセーショナリズムの波にのまれて劣化する。
私たちは長い間、これまでのニュース報道の文体に慣らされてきた。情報源があいまいな記事にもそれほどの違和感を持たなかった。情報源にまったく言及しない記事が伝えるニュースも、あまり疑うことなく「事実」として受け入れてきた。が、そうした報道の仕方に少なからぬ問題があることに、裁判員制度の導入が少しばかり光を当ててくれた。
賢明な市民であれば、情報源の扱いをおろそかにしてきたこれまでの報道の問題点を容易に見抜けるはずである。もし問題ありと考えるなら、それを是正するようメディア側に要求すべきだろう。ニュース報道はメディア自体のためのものでもなければ、情報を提供する役所や当局者のためのものでもない。私たち読者、視聴者、市民のためのものである。報道の中身やその手法に問題があれば、私たちは当然それを指摘し、改善を求めることができる。
『朝日新聞』が2008年8月に行なった読者満足度調査によると、読者が新聞に対して最も重視しながら現状に満足していないのは「記事の正確さ」だったという。そしてその「記事の正確さ」を判断する基準として、54.9%の読者が「情報源を示している」ことを挙げている(『ジャーナリズム』朝日新聞社、2009年7月号)。このことは、情報源を明示することの重要さを、報道現場の人たちより読者のほうが確かに認識していることの表れと見ていいだろう。
一国の政治のレベルは、その国の国民の民度以上のものにはならないといわれる。同じことはジャーナリズムのレベルについてもいえる。より良質のニュース報道をジャーナリズムに求めるなら、それを実現するための責任は市民の側にもある。いたずらにジャーナリズムを批判するだけでなく、それを育てる努力も惜しんではならない。
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2010年2月
著 者
書評 しんぶん赤旗日曜版 2010年04月18日
事件報道でよく登場する「捜査関係者」「捜査幹部」。政治報道では「政府は…固めた」式の記事。いずれも情報の出所が不明です。本書はこれがジャーナリズム劣化の原因だと警鐘を鳴らします。
森首相の会見指南事件、大手新聞大幹部による自民・民主大連立の仕掛け、中川財務相酷酎記者会貝への鈍感さなど、政治記者と権力との一体化ともいうべき関係が招いた事件を材料に病巣をえぐります。マスコミОBの著者は、読者・視聴者の信頼にこたえる自己改革を期待します。
書評 東京新聞、中日新聞 2010年04月18日
信頼を得る報道のあり方とは何か。情報源の扱いと報道の関係について、米国でのケースも踏まえながら、日本のメディアの問題点などを指摘。さまざまな事件報道の具体例を検証するとともに「匿名にする場合の条件を明確にするルールをつくり、当局側とメディア側でできるだけ情報源開示の原則に向けて双方が努力することを確約する」ことの必要性を訴える。
書評 法学セミナー 2010年6月号
わけのわからない「わかった」
「小沢対検察」報道など、情報源を明示しない報道は少なくない。元記者である著者は「もうろう会見」報道などを読み解かせつつ、裁判員制度の導入以後も記者クラブなどにより、情報源を明示する努力が欠けているとする。そして、情報源との緊張関係を欠く日本の報道が「可能なかぎり事実に忠実に伝える」報道と矛盾しているという。いわゆる取材源秘匿権とは一見相容れないこの主張は、公正な裁判と取材の自由という同権の問題に、民主主義社会における公衆の(情報源を)知る自由というさらなる撚りをかける。
ジャーナリズムは、送り手である報道機関(供給者)が専らつくるのではなく、受け手である公衆(需要者)との協働により、醸成されてゆく。情報源も明示せず「…がわかった」とする報道に対して、ときに「わからない」といえる賢明な公衆像が、本書をとおしてあぶり出される。
書評 ジャーナリスト 2010年5月25日号(No.626)
情報源の明示こそ報道の原則
あいまいな表現の問題点を突く
今の事件記者や政治記者たち、それに元検察担当記者の評者にとっても、「情報源をあいまいにせず、もっと明示すべきだ」という本書の主張は、面倒な宿題を言いつけられたのに似て、できれば聞きたくない苦言である。だが「直球」型の論旨はあくまで明快。ここは潔く「ストライク」などとつぶやきつつ、拝聴するよりほかにない。
筆者の主張は簡明だ。情報源の明示こそがニュース報道の原則であり、よく言われる情報源の秘匿はやむを得ない場合の例外である。匿名に隠れた情報源からの情報は不正確、無責任になりやすい。現在多用される「関係者によると」といったあいまいな表現は、情報源明示からはほど遠い。
実名や官職など、情報源を具体的に明示すれば、報道は今よりも正確で公正になる。取材相手に情報源明示を求める中で、本来必要な記者と取材対象との緊張関係も生まれるはずだ。
よく似た主張が最近、政界でも盛んだ。小沢一郎氏の「陸山会」をめぐる検察捜査と報道に民主党から「リーク批判」が起き、その文脈で原口総務相は「関係者によると」型の報道を批判した。
しかし政治的な意図を帯びた論には注意が要る。情報源明示をずっと以前から主張してきた筆者は、こうした最近の動きとは一線を画し、ジャーナリズムの質的向上を願って論を展開する。
記者側の鈍い意識や取材相手の抵抗で、すぐには筆者の理想通りの情報源明示は実現しないだろう。だが、本書が大きな方向性を指し示した意味は重いと感じる。
(藤森 研・専修大学准教授)
書評 出版ニュース 2010年6月上旬号
ニュース報道における情報源をめぐつて「関係者」や「関係筋」という言葉が盛んに使われるが、何が「わかった」といえるのか。(その人たちの立場を明らかにしないまま伝えるのは記者が一方的に情報源側の主張に加担してしまう危険もある)本書は、情報源の明示を手がかりに、より正確で公正な報道を実現するために、現在のニュース報道の問題点を提示する。ここではまず昨今の「小沢vs検察」報道を例に、「事実」の伝え方から浮き彫りになった日本特有の報道スタイル、暗黙の了解、あいまい表現などの問題を具体的に指摘しながら、情報源と一体化する記者のあり方に、自身の経験(通信社勤務)をふまえて警鐘を鳴らす。とりわけ裁判員制度や記者クラブの見直しが焦点となる中で、旧態依然の報道現場の「慣行」こそ改めるべきだと説く。アメリカの報道との比較検証も含め、報道への信頼を取り戻すための提案も明快だ。
書評 図書新聞 2010年6月12日号(NO.2969)
権力層の補完勢力となったメディアの
陥穿を丹念に分析し切開
報道現場の経験から、可能な限り情報源を明示することを提唱
昨年の西松事件以降、マス・メディア報道の狂騒は異様なかたちを呈している。西松事件が注視され始めた頃、民主党に対する期待感というよりは、自民党への失望感の増大から、自民党の支持率が急落していた時期にあたる。そのことに危機感を持った潮流と司法関係の体制維持派との脚本・演出といいたくなるほどの稚拙なメディアを通した権力行使は、結局、功を成さず、昨夏、戦後初めて総選挙によって政権交代が成された。初めの数ヶ月は、メディア側も穏当にしていたわけだが、鳩山由紀夫の母からの資金捏供問題を端緒にして、小沢陸山会における政治資金収支報告書への記載ミスという微罪で現役国会議員を含む三人を逮捕、小沢の事情聴取をするという暴挙に検察が出たのと呼応するかのように、メディア報道は、司法リークとしか思えない情報を垂れ流すだけで、水谷建設から裏金を受けていたというなんの根拠もない検察の思惑を既成事実化しようと、連日、小沢叩きを繰り返した。本書の著者もこう述べている。
「報道各社の伝えたニュースのほとんどが『関係者』からの情報にもとづくものだった。情報の中身から『関係者』が事件を捜査している東京地検特捜部と『関係』のあるものと容易に推測できた。しかしメディアはかたくなに、『関係者』がどのような立場にある情報源なのかを明らかにしようとしなかった。」
さらにいえば、白公政権の時は、沖縄の米軍普天間基地移転問題にまったく触れようとしなかったにもかかわらず、現在では連日、メディア側は政権の対応を批判し続けている。そして、こうした情報の氾濫の中で世論調査をすれば、内閣支持率というものは、急落していくのは当然のことだ。これは、"民意"というものがメディアの情報操作でどうにでもなるということを意味する。トピックな事象だけを皮相に特化して報道するだけのメディアは、記者会見をフリーランサーたちにも開放していくという画期的な新政権の方向には一切、触れようとしない。これは、特権的な記者クラブ制度改革へと繋がるからなのだ。だから、これに対抗するかのように民主党批判を続けているとしか見えなくもない。わたしは、なにも民主党や小沢に与するものではないが、これは異様な状態だというしかないと考える。いったい、この国のメディアは、いつから芸能人のスキャンダル報道のような皮相で、思考欠如させた文脈で政治情勢に関する報道をするようになったのだろうか。かつて、第三の権力とも第四の権力ともいわれたメディアという存在は、いまや独立した権力体というよりは、既存の旧権力層の補完勢力になってしまっているに過ぎず、まさしくメディア・ファシズムといっていい情況を露呈させている。テレビや新聞によるニュース報道がすべからく真実・事実を伝えていると思うことは、危険である。わたしたちは、戦前の大本営発表をそのまま報道したマス・メディアの情況と現在の報道のあり方は、本質的にはなにも変わらない情況であることをまず認識すべきである。
さて、本書は、そうしたマス・メディアにおける弛緩した報道の陥穿を、情報源の問題にあるとして、そのことへ鋭く切り込んだ画期的な著書だ。わたしのような、予見を持ってマス・メディアを断罪するのとは違って、著者は「共同通信」に在職した経験を通し、丹念に様々な事例に沿って解説を加えながら、報道現場の問題点を分析し切開していく。そこで、明らかにしていくのは、情報源を曖昧にしていかにも客観的立場から報じているように装う、情報源と一体化した報道という実態だ。
「報道における情報源の扱いを見直すことによって、日本のメディアの報道の質、ジャーナリズムの質を格段に向上させることができる」「報道に対する信頼を高めるために必要なのは、可能な限り情報源を明示したかたちでニュースを伝えることであって、『秘匿』が必要になるのは、情報源の身の安全や権利を守らなければならない、例外的な事態の場合である」「改革を拒んでいる最大の要因は、現状を打破しようという新聞界の意思の欠如だと思われる。記者クラブによって守られている特権的地位を失いたくないという実利的計算もあるに違いない」「ジャーナリズムはジャーナリスト個人のレベルでも、その集団が支えるメディア企業のレベルでも、弱体化と質の劣化が進行している」
著者のこれらの論及にわたしはまったく同意する思いだ。そして、著者がいう情報源の扱いの見直し、そして明示という方向によって、メディア報道は、大きく変わる可能性があることにも注視していきたいと思っている。
(宗近藤生・フリージャナリスト)
書評 メディア展望(『新聞通信調査会報』改題)
2010年7月1日号(NO.582)
著者はまず、「あなたはメディアが伝えるニュースをどこまで信用していますか?」と設問する(「まえがき」)。
次いで、「より正確で公正な報道を実現するために、現在の報道に何が欠けているのか、何が問題なのか」と続け、「日本のメディアの現場で正面から議論されることのなかった、情報源の扱いがそれである」と答える。そして、一貫して「情報源明示」の必要性を論証する。
小沢一郎民主党幹事長をめぐる政治資金報道(2010年1月)でも、「突如政治問題化したのがこの情報源の扱い」であり、「これまで何十年も続けてきた報道現場の慣行が、この報道をきっかけにやり玉に挙げられたに過ぎない…ようやく無視できないところまで顕在化しつつあることを裏付けている」と考察している。
著者は共同通信の国際記者としてアメリカを中心に活躍した後、上智大学教授などとして若い人々にジャーナリズムを講義してきた。先月号(518号)掲載の「なぜ伝えぬ『市民団体』」も、現在のメディアの「怠慢」か「臆病」かを突いて鋭い。検察審査会に小沢氏関連事件の審査を申し立てた市民団体の実体は、明らかにメディアが国民に伝えるべき重要な事実だ。藤田氏ほど情報源の問題を正確に語ることのできるメディア人はいないだろう。
だからこそ、「アメリカのジャーナリズムは…情報源の扱いについてきわめて厳しい指針を持っている」「誤報や盗用・捏造といった不祥事が繰り返し起きている」が、「いいかげんな報道に走らないための有力な『歯止め』になっている」と論評し得る。そして、情報源に関するアメリカの基本ルールなど、内外の具体的な報道事例やデータをも豊富に紹介している。
その一方、日本のジャーナリズムには、「そうした『歯止め』がない」という。「読売新聞の新指針」など、情報の扱いに関するメディア各社の最近の動向を紹介しつつ、日本における情報源明示はなお不徹底だと批判する。
そういえば、『読売新聞』の論説委員はこの「新指針」に触れつつ、「取材源を秘匿するのは記者の鉄則だ」と強調している(2010年1月23日「とれんど」)。確かに日本のメディアでは今でも、情報源の「秘匿」を鉄則視し、それを「明示」より優先させている。
藤田氏の著書に戻る――前記小沢一郎関連報道では、情報源と「リーク」(意図的な情報漏えい)の関係を詳細に論じ、そこでリークを否定するメディアの合唱の一つとして、朝日新聞社会エディター(部長)の説明を引用している。
「人や資料から得た情報を重ね合わせて、特捜部の狙いを薄皮を一枚一枚はがすように明らかにする作業を毎日繰り返している」
しかし、著者は「記者が大変な努力をしていることはわかる」としつつも、「この説明が建前に終始し」「取材の実態について具体的に何も明らかにしていない」といい、検察の情報管理の実態を明らかにしている。
ちなみに、司法記者だった小生も、検察事件では、検察幹部の何らかの「OKサイン」無しでは書けなかったし、書けば報復を覚悟した。
本書は情報源とメディアの相互依存関係へと論を進める。「60年安保の政府声明を代筆した」と自慢するメディアトップ、外国報道に後れを取った「もうろう会見」、などを例証として、情報源問題が実は、記者クラブ制度や政治家同行取材など日本独特の報道慣行と結び付いていて、究極的には、公権力とメディアとの癒着につながる危険な構造を警告する。
そして終章では、情報源の明示が徹底されてこそ「記者の取材対象に対する意識も変わる」だろうし、「情報源を介していわば従属を強いられてきた記者が…多少とも対等な関係に近づけられるなら…ニュ−ス報道に新しい地平が開かれる可能性もあるだろう」と結んでいる。それは著者のみならず、心あるジャーナリストや読者・視聴者共通の熱い願いでもあろう。
(前澤 猛=ジャーナリスト)
書評 ジャーナリスト 2010年12月25日号(第633号)
「読書回顧:私のいちおし」
記者と情報源の扱いを巡り、
日本的な問題点を浮き彫りに
石川 旺(上智大学元教授)
藤田博司『どうする情報源』(リベルタ出版)が断然いちおしである。
1月の小沢一郎と検察の対峙に際し、メディアは検察がリークした情報を情報源を明示せず流し、結果として検察が意図するような世論醸成に貢献したのではないかと強く批判された。本書は、「情報源を明示することは…記者に自分と情報源の間の距離を明確に意識させ」ると喝破している。記者と取材源の関係という日本のジャーナリズムの最大の問題点が、情報源の取り扱いという視角から、豊富な事例と的確な指摘で見事に照射されている。しかし、ジャーナリズムにはその後一向に改善はない。
海上保安庁職員によるビデオ流出事件でも一部有力紙は情報源を明示しないままに「警視庁と東京地検は逮捕の方針」と報道し続けた、とは著者の最近の指摘である(「メディア展望」12月号)。
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