ホーム
サイト内検索

抜粋 はしがき

 星のナビゲータ
 はじめに「巫〈kanna・gi〉」というあまり馴染みのない標題について少し触れさせてほしい。
 アイヌ語のkanna(カンナ)は何度もという意味の副詞であると『アイヌ語辞典』(田村すず子著)に記されている。何度も何度も塗りを繰り返して完成する漆器、何度も何度もヤリガンナで削って仕上げた法隆寺の美事な円柱、板金職人が金槌一本で打ち出した新幹線先頭車両の美しい流線型、これらの職人技を目にうかべながら、もしかするとカンナはアイヌ語と日本語の共通の祖語と想定される縄文語由来の言葉ではないかと筆者は考えている。
 日本の製造業のレベルを世界一に導いた金型技術は、何度も何度も繰り返す作業のなかから生み出された至宝であり、日本のものづくり精神の根源はひょっとするとこのkanna(カンナ)にあるのではないかとそんな想いが込みあげてくる。
 縄文人はkannaの精神で執拗に方位測量を繰り返し北極星の方位を定め、行き先を決めていたと筆者は考えている。文字を持たなかった縄文人のこの精神を表す何かよい言葉はないかと考えた末にたどりついたのがkannaという音声をもつ「巫」であった。縄文人は星によって行き先を占っていたわけで、「巫」には「占う人」という意味もある。
 この伝承を受け継いできたと考えられている「またぎ〈mata・gi〉」は地図を持たなくとも山野を自由に往来することができる。
 現代、天体観測用にアストロアーツ社から「ステラ・ナビゲータ」という有力なソフトが出されているが、本書ではこのソフトで北極星のシミュレーションを行い縄文人の方位に迫ろうとしている。『星の巫』とは縄文人の『星の道案内人』つまり星のナビゲータといえよう。
 北海道を除く日本列島には、星野や星越など星にゆかりのある地名(本書では星地名という)が、あたかも空から降ったように沢山みられる。
 ──星地名は夜空の星から生まれたのか?
 はじめ、これが私の正直な直感だった。
 本当に、星が空から降ってきて星地名になったのであろうか。

 星・細地名の分布
 星地名を調べると「星越」→「細越」のように星地名に極めて似ている「細」のつく地名が沢山あることが分かる。
 そこで、本書では「星」や「細」のつく地名を「星・細地名」と命名させていただき、それらがどのように分布しているかを調べてみた。すると5ページの「星・細地名の分布図」のように星地名は中国地方、四国、九州に多くみられ、これに対して東北や新潟周辺では星地名に類似した「細」のつく地名が多く見られた。これは一体何を意味しているのであろうか。
 分布図は地図ソフト「アトラスメイト」(住友電工システムズ株式会社)から「星」や「細」のつく地名を探し出し白地図に表示したもので、国土地理院の「二万五千分の一数値地図や二万五千分の一または五万分の一地形図」には、さらに多くの星・細地名が存在している。
 またアトラスメイトや国土地理院の地図には表示されていないが『全国地名読みがな辞典』や地域の住宅地図などに記載されている場合もあり、他に、地域の住民しか知り得ない星・細地名もあり得ることは想像に難くない。したがって、ここに示されたものは一部に過ぎないことをご了承いただきたい。また、北海道には「星・細地名」は殆どみられないが、それはアイヌ語と日本語という言語の相違によるものと考えられよう。
 分布図を見ながら考えると、「星野←→細野」「星越←→細越」のように星・細地名には明らかな類似性がみられるが、これは「ただ似ているだけ」あるいは「単なる偶然でしょう」と考え、そのまま見過ごしてよいものであろうか。もしかすると、私たちの知らない遠い昔に、星〈hosi〉は東北や新潟周辺では細〈hoso〉と発音されていたのではないか、という疑問が湧いてくる。
 この疑問に答えられるような文献は、はたして存在するのか。星地名について、わが国の古い書物などに何らかの記述は見られるのであろうか。
 古い地名について記された辞典として『和名類聚抄』(和名抄)があげられるが、これとて平安時代中期(931〜938)に源順(911〜983)が編纂したもので、恐らくは星地名が誕生して以来およそ3000年?も経過していると考えられ、しかも残念ながら『和名類聚抄』には限られた地域の国名・郡名・郷名しか記載されておらず、地方の片田舎にみられる星地名などは殆ど記されていない。
 『古事記』は暗誦力の優れた稗田阿礼(生没年不詳)が誦習していた天皇の系譜や古い伝承を太安萬侶(生年不詳〜723)が筆録して編纂し、和銅五年(712)に献上された日本最古の歴史書とされている。また『日本書紀』は天武天皇皇子の舎人親王(676〜735)の監修により養老四年(720)完成された歴史書である。したがって、古事記や日本書紀の記述のなかに星地名に関わる記載があるかどうかは興味深い。

 星地名誕生の謎
 不思議なことに、星山、星野、星川、星谷、星越などの星地名がいつ頃、どのようにして誕生したのか、という疑問に対する明確な答えは今のところ古い歴史書にも記述が見つかっていない。つまり星地名誕生の由来は謎である。星地名は、わが国に漢字が伝来する遙か前(恐らくは縄文時代か?)から存在していて、縄文人の子孫たちと大和の人々とが交流する過程で、現地人の発音に基づいて漢字で表され、今のような形になったものと想像される。
 どうして星地名誕生の由来が不明なのかについては三つの推理が考えられよう。
 一つは、大和の人々は現地人の話す地名を、その発音に忠実に、漢字に翻訳するという些か厄介な作業に専念するあまりに、「どうして星地名がつけられたのか」という疑問にまで思いが及ばなかったのではないか、その結果、星地名誕生の由来が伝承されないまま現在に至ったのではなかろうか、という推理である。
 もう一つは、縄文人の子孫かと思われる現地人が、自分たちの先祖が遠い昔に名づけた星地名の由来をすっかり忘れ去っていたのではないか、という推理である。
 さらにもう一つ、これは少々穿った詮索といわれるかもしれないが、弥生人たちが意図的に星地名の由来を隠したのではないか、という推理である。
 しかしながら、これらの推理についても、未だ何一つ記載が発見されていないのは、やはり不思議という他はない。

 星地名と神社
 星地名の地域には、しばしば神社が存在している。「どうして星地名の処に神社があるのか」という疑問についてよくよく考えてみると、それは、その地域の大切な場所に先人たちが立てた石や柱がやがて祠となり、多くは平安時代に神社になった可能性が考えられよう。
 平安時代には、星地名地域に中国伝来の妙見信仰(星信仰の一つ)が進出して来る傾向がみられるが、これは一体どうしてなのか。
 桓武天皇は東国平定に際して妙見信仰を推奨したといわれているが、縄文人ないしその子孫と星信仰とはどのような繋がりがあるのだろうか。

 曖昧さのなかから
 青森県の三内丸山遺跡は、もしかするとそこが野球場やサッカー場になったかもしれないという運命の分岐点に立たされたことがあった。
 岐路の選択は公共事業が優先か遺跡保存が大切かという難問題であり、公・民ともに大変な苦悩のトンネルを潜りぬけた末に工事を中止してまで遺跡の温存を図るという、なかなかできない決断を採択した。
 その三内丸山遺跡が「縄文時代は本当に豊かだったのだろうか」という疑問をかき消すかのように「縄文時代の豊かさ」を現代にむかって誇らしげに発信しつづけている。その内容は、「このあたりはあるいは『北のまほろば』というべき地だったのではないか」と言い表わした司馬遼太郎氏の言葉がまさに至言であったことを裏づけるメッセージのようにも受けとれる。
 「まほろば」はもちろん日本武尊の国偲の歌から引用されている。東征からの帰路、倭の地を目前に、病に伏して死を悟った尊は、帰りたくても辿りつけないなつかしい故郷に望郷の思いをこめて「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるはし」と歌ったとされることに由来している。ただし歌われた時期は不明で、恐らくは4〜5世紀頃か。
 「北のまほろば」と「倭のまほろば」、二つの「まほろば」には何かとてつもない秘密が隠されていそうな、そんな憶測が芽生えてもごく当然かと思われるほどの不思議さがこの言葉には宿っている。「まほろば」という言葉が成立した時代とその意味の解釈に戸惑いを感じる。
 「まほろば」は縄文の言葉なのか、それとも弥生の言葉なのか。「まほろば」が極めてすぐれたところと解釈されるならば、それは一体何においてすぐれていたのであろうか。
 実は「まほろば」という言葉を明確にしようとするとなぜか名案が浮かばない。はるかな時空の彼方に霞んでしまう。
 考えてみると、三内丸山から出土した石鏃の黒曜石は少数の秋田県男鹿産や長野県霧ヶ峰産を除くと多くは北海道産であったし、ヒスイは糸魚川産であるとされている。黒曜石やヒスイは三内丸山と原産地を結びつける考古学上の物証であるばかりでなく、「まほろば」では想像以上に広範囲にわたる交易が行われていたことを示す証と考えられる。
 また「まほろば」が多くの人々が集うところであったことも容易に想像される。土器をつくる人や土器に漆を塗る人、ヒスイを加工する人や建物を建てる人、狩猟や漁をする人、舟をつくる人や航海をする人、他にも様々な人々が集っていたに違いなかろう。
 「まほろば」には、もっと他に現代人の想像もつかない役割を担っていた人々が存在していたのかもしれない。

 黒曜石の原産地・星糞峠
 三内丸山から出土した霧ヶ峰産の黒曜石の原産地について興味深い報告がある。
 『黒曜石の原産地を探る・鷹山遺跡群』(長門町立黒曜石体験ミュージアム編)によると〈黒曜石を産出する星糞峠から虫倉山の南斜面では、縄文人がさかんに穴を掘り、地下に埋もれていた黒曜石を採掘していました。〉また〈「星糞」という言葉は、非常にインパクトのある響きですが、これはまさに、キラキラ輝く黒曜石のことを指し示しています。地元のおばあちゃんたちの話では、星糞峠は流れ星が降り積もったところであると小さなころから聞いて育ち、また、別名では「お天道様のハナクソ」とも呼んでいたとのことです。〉と記されている。
 縄文時代の黒曜石原産地の地名が「星地名」であったことには言葉にならない驚きと、なぜ星地名なのかという疑問とが混じりあって不思議な衝撃を感じたのを思い出します。
 一体「星糞」とは何を意味し、縄文時代とどのような繋がりをもっているのであろうか。

 測量技術はあったか
 ところで「まほろば」には何かもっと意外な技術をもった人間はいなかったのか。そんなとりとめもない疑問からふと思いついたのが測量であった。
 ──果たして縄文人は測量技術をもっていたのであろうか。
 この問題について「縄文人は方位測量を行った。それも本州、四国、九州と日本中をくまなく、しかも極めて正確に」と述べようものなら、「まさか、それは伊能忠敬の間違いでしょう」と軽蔑されないまでも、いささか軽率のそしりを免れまい。
 実際、この国には忠敬以前に正確な測量にもとづく地図は存在しなかった。伊能忠敬が江戸末期から明治にかけて極めて正確な日本地図(伊能図)を紙に表わしたのに反して、縄文人は紙に記すことがなかったので彼らの測量が記録として残ることはなかった。縄文人が何かを測るという行為を実際に行ったかどうか、仮に行ったとすればその行為はどんな言葉で言い表わされたのか、何の目的でどのようにして測ったのか、これらの問題について話を突き詰めると、残念ながら、問題自体があるのかないのか、それさえ明らかでない曖昧な状況に陥ってしまう。
 一体このような曖昧さのなかから「縄文方位測量」の立証は可能なのか。つまり縄文方位測量の定義などまだあり得ないし、とりあえず縄文方位測量とは「縄文人が行った方位測量のこと」という言葉どおりの漠然とした概念として把握しておくしかないのが現状である。
 さておよそ5000年前を想定しよう。5000年前から現代までの間に人間は果たして進化したのであろうか。確かに知識や技術の蓄積は膨大といえよう。しかし肉体や精神はどんな進化をとげたのであろうか。仮に一歩も二歩もゆずって現代人が縄文人よりもどこか進化したとしよう。この現代人が真っ暗闇の森の中に置き去りにされたらどうか。電灯もない、時計もない、辺りを見渡しても明かり一つない、もちろん道もない。そのとき現代人は一体どうするだろうか。恐らくそんな状況ではどんな些細なことにも、つまりは空気の振動にも、温度や光の微妙な変化にも感応できる神経の繊細さが必要となろう。こんな夜には、月の明かりや星の光がどれほど人々の心にゆとりと勇気を与えてくれるかを知ることになろう。
 縄文方位測量の発想は、やや過敏な感覚(センサー)から得られたいささかとりとめもない情報を常識を超えた想像によって極限にまで増幅する、という異常な過程(プロセス)からしか誘導されないような気がする。そんな一風変わった歴史探訪のみちばたで、記録にはない、まるで幻のような縄文人の方位測量がひょっとすると存在するかもしれないと知ったとき、一番戸惑ったのは探訪者自身であった。「こんなことが果たして本当にあったのだろうか」と、疑心暗鬼にならざるを得なかったのである。
 実は「縄文人がひょっとしたらある種の測量を行っていたのではなかろうか」という「兆し」のような事象が全くないわけではない。それはわれわれの日常生活の周辺にさりげなく存在している神社の鳥居であったり、見慣れた山々や海に突出する岬であったり、少し離れた小島であったり、あるいは信仰の対象とされている巨石などであったり、また時には思いもよらないものであったりもしよう。ただし、これらの「兆し」が縄文方位測量と結びつくのはずっと先のことである。

 仮説の塊
 本書は「星地名はいつ頃どうして誕生したのか」「今でこそ星は〈hosi〉と呼ばれているが縄文時代には何と呼ばれていたのであろうか」「星地名は何を意味するのか」「星地名地域になぜ妙見信仰が出現したのか」などの疑問について考え、本書で示し得なかった多くの星地名について読者の皆様から情報提供を賜り、星地名の解明が一層進展することを願うものである。

 本書は多くの新しい仮説によって構築されていると私は考えている。
 例えば青森は縄文時代に「とやま〈too・ya・ma〉」と呼ばれていた可能性があるとか、三内丸山遺跡の六本柱は縄文時代の北極星を指し示していたとか、青森県五所川原市金木町の「喜良市」という地名が「綺羅星」を意味し、岩手県二戸市金田一の「金田一」もやはり「綺羅星」を意味しているという仮説は、恐らくはこれまで誰も提唱しなかった新しい仮説といえよう。同様に「たんぽぽ」や「つくし」の意味も辞書にはない新しい仮説であろう。
 本書は、いわばマッチ棒のような小さな仮説を組み合わせて積み重ねた複雑な造形物のようなものである。それぞれの仮説は小さくとも、それらが支え合って縄文方位測量という主軸となる仮説を形成している。つまり仮説の塊といえよう。各々の仮説は微力でも構築されると説得力のある仮説に育つかもしれないと期待している。
 のどかな田園風景を求めての旅では是非とも本書をお供に連れて行っていただきたい。そして縄文人になったつもりで眺める海や山や川、今もなおそこで行われている人間の営みに、深い歴史の流れを感じていただければ幸いである。
 科学の進歩は仮説から始まると信じている。多くの仮説からなる縄文方位測量について、近い将来に科学的な検証がなされることを切望しながら、今はともかく、星について出来るだけ多くの情報を収集することに専念したい。

書評 河北新報 2009年7月27日

 地名と天文の結合推察

 日本各地の「星」などが付く地名は、縄文人にとって重要な場所で、厳密な方位測量で位置づけられていたー。大胆な仮説に基づいて、著者(1937年生まれ)自らが日本各地を訪問。星を頼りに、人々が自由に行き来した新たな縄文時代像を描き出す。
 青森市の三内丸山遺跡の発掘などで、狩猟中心の原始的生活だったと考えられていた縄文時代観は大きく変化している。同遺跡からは北海道産や長野県産の黒曜石、新潟県産の窮翠(ひすい)なども出土し、縄文人が広範囲に交易を行っていた可能性も指摘されている。
 著者は、各地の地名に残る「hoshi」などの音が、縄文時代からのものと推測。「文字」という伝達手段を持たない縄文人が、道に迷わずに移動できたのは、「星地名」を頼りにしたからではないかと考える。
 日本地図をひもとくと、「星地名」はちょうど周辺の山や丘を直線で結んだ交点にあるという。このことから著者は、地名が行き当たりばったりに付けられたのではなく、北極星を基準にした測量で厳密に導き出されたと確信していく。
 「星地名」は縄文人の集落のほか、聖地などさまざまな場所に残るという。著者は十和田市で内科医を務める傍ら、日本各地に足を運んで現地の人の話を聞いたり、地図上で地形を確かめたりして、「星地名」の "発見"に心血を注ぐ。
 果たして本著が推論している通り、縄文人は優れた測量術の持ち主だったのだろうか。彼らが自身の歴史を記録する手段を持たなかった以上、それは永遠に分からない。
 著者自身も、本書を「仮説の塊」と紹介しており、自説を絶対に正しいとごり押しするつもりはないようだ。
 これまでにない縄文時代を想起できる書として、星の輝く夜空のような雄大な気持ちで手に取りたい。昔ながらの土地の名は、太古の何かを今に伝える「地名力」のようなものを秘めていることに思いをはせながら。

書評 デーリー東北 2009年6月28日

 「縄文方位測量」「星地名」を考察
    十和田の森下さん 解説本を出版

 十和田市の内科医・森下年晃さんが、ライフワークとする独自の仮説「縄文方位測量」を詳細に解説した「縄文のナビゲータ 星の巫(かんなぎ)」。縄文人は星を崇拝し、高度な測量技術を持ち得たと主張、全国行脚の調査で論拠をまとめた入魂の一冊だ。
 「星野」や「星越」などを「星地名」と呼び、「細野」「細越」などと類似していると指摘。全国の星地名の位置関係を考察しながら「星地名の多くは正確な方位測量によって配置され、広範囲な連絡網を形成していた」と強調する。
 新渡戸氏の三本木原開拓事業や妙見信仰にも言及。2000年2月の自費出版で打ち出した持説について、さらに研究を進め、内容を補完した。著者は、日本が世界に誇る「ものづくり」精神の源流を縄文文化に見いだし、過去に学ぶべき―と説く。

書評 図書新聞 2009年9月26日(No.2935)

 夢幻の縄文世界をめぐる
  縄文は、現代人が置き忘れてきたものを
  快復するための膂力

縄文という言葉には、様々なイメージが喚起される。そしてそれは、古代への憧憬とともに、現代人が置き忘れてきたものを快復するための膂力になるといっていいかもしれない。そんなことを、本書を読みながら思った。
 古代・縄文期の象徴は、「星」である。空中に輝く星たちは、何千年、何万年という時間、不変であり続けてきた。文字がなく地図もない時代、縄文期の人々の暮しを、まさしく照らし出してくれたのは、星たちによる「方位」の誘導であったというべきである。
 著者は、「縄文人は(略)執拗に方位測量を繰り返し北極星の方位を定め、行き先を決めていたと筆者は考えている。文字を持たなかった縄文人のこの精神を表す」言葉として、「kannaという音声をも」ち、「『占う人』という意味もある」「巫」にたどりついたと、「はしがき」で述べている。そして、さらに、著者のイマジネーションは全国の「星地名」へと拡張していく。
 「星地名」は、「星」の字がつく場所だけではなく、音が近い「細」という字も含ませていく。著者のイメージの大胆さと緻密で鋭角的な分析力は、この言葉の「音(韻)」の連関性に着目している点に求められる。
 例えば、草花の「タンポポ」をめぐって、その語源を遡及しようとしてアイヌ語と日本語の狭間に視線を射し込んでいく。
 「解明しようとする言葉についてアイヌ語と日本語の両方にその言葉を表現できる共通性があれば、その言葉は縄文語由来である可能性が高いと言えよう。逆に弥生以降や奈良時代以降などに新しく作られた日本語(略)にはアイヌ語との共通性は原則としてみられないといえよう。」(「第3章 失われた縄文語」)
 そして、著者は、アイヌの木彫り人形「ニポポ」に着眼し、そこから「ポポ」を取り出して、「タンポポ」の「ポポ」と通底しているものを、「小さいもの、可愛らしいもの」の意味と解していく。さらに、「タン」は、「タマ(玉)」のこととして、「日本語の玉〈tama〉とアイヌ語の〈toma〉(ケシ科の多年草・エゾエンゴサクの球状の塊茎)は音韻対応し」(「同前」)ているから、「タンポポは玉ポポと考えられる」とし、「タンポポは縄文語由来の言葉」であると結語していく。著者のこうした、「音(韻)」の連関性を機軸とした論及のし方は、「国土地理院」の地図を多用するという独自の俯瞰視線を巡らせながら、全国に遍在する「星・和地名」探索の方法にもなっていく。
 「星(hosi)」や「細(hoso)」の発音は漢字表記にあてたものであるから、hottiやhottoを縄文期以降の音韻として、「星」や「細」の名の付く地名をさらに拡張させていきながら、様々な場所に定点を降り立たせていく論及は、鮮やかである。
 そして、「星・細地名」間における直線的な連結性があることと、「星・細地名」があるところに縄文遺跡があることの連関性を確定させることによって、本書は、「星地名の多くは極めて正確な方位測量によって配置され、北極星の方位による年代推計から測量が行われたのは縄文時代である」とする大胆な「『縄文方位測量』の仮説」を提示していくのである。
 江戸期から既に知られていたという青森県の「三内丸山遺跡」の本格的な発掘が近年なされ、考古学上、最大級の資料をわたしたちは知ることとなった。この遺跡は、縄文期前期中頃から中期末(5500年前か4000年前)の「大規模集落跡」とされている。この遺跡で発見された遺構のなかで、最重要なものとして、「巨大な栗の木の六本柱」というものがある。著者は、この「六本柱」には、屋根がないはずだ、あるいは、あっては困ると主張する。
 それは、次の様な著者の見立てがあるからだ。つまり、縄文期の人々は、「高さ二〇メートル」の地点から、「かがり火を灯し、遠くの山頂から同時に北極星を観測した」(「第11章 ふたつのまほろば」)はずだという著者のイメージである。
 わたしたちはこのイメージに、まったく同感の思いを抱きながら、本書を通して夢幻の縄文世界をめぐることになる。
                    (室沢 毅/社会批評)