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抜粋 序章 震災経験の継承
「中越」から「東日本」へ
2011年3月11日の東日本大震災は、地震・津波・原発事故のトリプルパンチとなって日本列島の東半分に甚大な被害をもたらし、世界中に衝撃を与えた。とくに津波に対しては多くの備えをしてきたにもかかわらず、自然の威力の前になすすべもなかった。最大で50万人を超える人びとが避難生活を送り、死者・行方不明者の合計は2万人に近いとみられる。さらに「人災」というほかない福島第1原子力発電所の事故が加わり、いまだに多くの人びとが、先のみえない不自由な避難生活を強いられている。
残念ながら私たちは、地震の発生も津波の襲来もそれ自体は防ぐことはできない。私たちにできることの一つは、過去の災害経験から、そして現在進行中の事態から学び、記録し、後世に伝えることである。突然の災害に向き合ったときに、何ができて何ができなかったか。どのような仕方で災害を乗り越え、「復興」にいたるのか。災害のかたちはつねに違うので、万能薬を調合することはできないけれども、一つひとつ経験知を積み上げていくことは可能であり、必要なことであろう。
2004年の中越地震、07年の中越沖地震と新潟県は連続して2度の大地震に見舞われた。またその前後には、水害、豪雪と災害が相次いだ。短い期間に繰り返し貴重な人命が失われ、多くの家屋が被害を受けた。被災地では大勢の人びとが避難生活を経験し、地域内外のボランティアによる支援のありがたさも知った。こうした経験の中には、今回の東日本大震災の復旧・復興に、あるいは今後も予想される災害への対応に、生かされるべき点が数多く含まれていると考えられる。
本書では、このような問題意識にもとづき、とくに「人と人とのつながり」という視点を基軸として、中越地震・中越沖地震の被災者と被災コミュニティの経験をたどっていくことにする。それを、コミュニティやボランティア、ジェンダー、市民活動などのいくつかの角度から採り上げて、検討していくことにしよう。数量的なアンケート調査も実施したが、中心となるのは被災地でおこなってきた聞き取り調査・事例研究である。深刻な被害を受けた集落の再生に向けて苦難の道を歩んできた被災者、突然の災害に対応を迫られた町内会などの地域コミュニティや市民活動の担い手、行政や社会福祉協議会の担当者、原発事故の影響で福島県から新潟県に避難中の人びとなどさまざまな立場の方を訪ね、お話をうかがってきた。本書の記述においても、厳しい経験をくぐり抜けてきた当事者の「生の声」に耳を傾け、できるだけその「思い」に近づくことをめざしたい。
中越地震・中越沖地震の概要
中越地震の本震が起こったのは、2004年10月23日の午後6時前だった。震源のあった川口町(現長岡市)で震度7、小千谷市と山古志村(現長岡市)では震度6強を観測した。さらに地震当日だけで震度5以上の余震が10回起こり、翌日以降も余震を繰り返した。この地震による新潟県内の死者は関連死も含めて68人、負傷者は約4800人を数え、およそ12万棟の住宅が被害を受けた。余震が繰り返し起こりライフラインが途絶する中、ピーク時には避難者が10万人を超えた。そのさいに、公共施設等の避難所ではなく、車庫やビニールハウスなどに自主的に避難する人が多数発生した。車中泊を選ぶ人も多く、いわゆるエコノミークラス症候群も問題になった。こうした多様な避難形態が中越地震の特徴のひとつをなしている。
中越地震は、中山間地に大きな被害をもたらした。土砂崩れや地滑りによって道路が寸断され、電話等の通信も機能しなくなり、孤立集落が多数発生した。山古志村では、全村民がヘリコプターで避難する事態となった。河道閉塞や宅地の崩落などの被害も加わり、避難指示が長期化した。
地震それ自体の被害に加えて、その年の冬は例年にない豪雪になった。被災地では多いところで平年の二倍を超える積雪となり、住宅や道路、農業施設などにさらに大きなダメージが加わった。積雪期には復旧のための工事や作業も停滞し、被災者は雪国ならではの条件の厳しさとも格闘を強いられてきた。仮設住宅へは、最大でおよそ3000世帯、1万人ほどが入居し、その解消までに3年以上を要した
この中越地震の発生から3年も経たない2007年7月16日に、新潟県は再び激しい地震に襲われた。柏崎市を中心とする地域に大きな被害をもたらした中越沖地震である。最大震度は6強で、死者は関連死を含めて15名、重軽傷者は2300人あまりにのぼった。4万棟を超える住家が損壊し、うち7000棟が全半壊の被害を受けた。余震は少なかったが、とりわけ柏崎市の中心街を含む狭いエリアに被害が集中した。電気・水道・ガスといったライフラインも大きな被害を受け、電気については地震発生から2日後に復旧したが、ガスが全面供給されたのは42日後だった。住宅等の火災は少なかったが(2件)、東京電力柏崎刈羽原子力発電所3号機の変圧器から火災が発生し、全機が稼働を停止する事態になった。
地震発生後、小中学校やコミュニティセンターなどに避難所が開設され、避難所数は82カ所に及んだ。ピーク時の避難者数は1万1000人あまりである。それ以外に、特別なケアを必要とする高齢者などのために、福祉避難所が6カ所開設された。また災害対策本部や自衛隊によって食料の提供や炊き出しがおこなわれ、多くの支援物資が被災地に届けられた。さらに、地震被害の報を受けて、県内外から延べ2万人を超えるボランティアが被災地に駆けつけた。
本書の構成
本書では、現在進行形の事態である東日本大震災を念頭におきながら、上記2つの地震災害に直面した人びとの経験の中から示唆をすくい取る作業をおこないたい。主として2008年の夏から2011年の夏にかけておこなった、聞き取り調査とアンケート調査の内容にもとづいて、順次議論を進めていくことにしよう。
第1章では、中越地震によって壊滅的な被害を受けた山間地の集落が、再生に向けてどう歩んできたのかをたどる。中心的に採り上げるのは、山古志村の中でも被害が大きかった二つの集落と小千谷市十二平集落である。前者はもとの場所に戻って集落を再建する道を選択し、後者は平場に下りて新しい土地に集団移転することを選んだ。対照的な方法で集落の再生を模索した2つの事例について、その経過を跡づけるとともに、現時点での住民の評価や展望に耳を傾けることにしたい。
第2章では、災害時に「女性の視点」はどのように生かされたのか(生かされなかったのか)、あるいはジェンダー、男女の役割はどう機能したのかということを考えたい。まず、長岡市を中心としてジェンダーや女性の視点をテーマに活動する2つの市民団体について採り上げる。中越地震の厳しい経験をくぐり抜けることによって、活動や考え方がどのように変化していったのかをたどる。ついで、中越沖地震の被災地でおこなったアンケート調査および聞き取り調査について紹介する。前者からは、依然として「女性の視点」が十分に生かされていないこと、そしてそれが「問題」として受けとめられていることがうかがえる。後者については、地震時のすぐれた対応が評価されているコミュニティでは、女性リーダーが重要な役割を果たしていたことを指摘し、その条件を探る。
第3章では、中越沖地震の被災地で2度実施したアンケート調査の結果を紹介する。1回目は地震から3カ月後に実施したもので、とくに中越地震の経験がどのように生かされたのかというテーマを念頭においている。2回目は地震から3年後の10年におこなったもので、「復興」の状況と地域の「つながり」について探ることを目的としている。被災生活や復興への過程において、地域の社会関係はいかなる役割を果たしたのか、また被災経験は、地域の社会関係にたいしてどのような影響を与えたのか、などについて考えてみたい。
第4章では、前章のアンケート調査の結果もふまえて、柏崎市における地縁型のコミュニティ団体とテーマ型・ネットワーク型の市民団体の事例を採り上げる。前者については、とくに地震のさいに、外部から駆けつけた災害ボランティアと地域コミュニティがどのように連携していったかという点を軸に、災害に強いコミュニティの条件を探る。後者では、テーマ型の団体とそれらをゆるやかに結びつけるネットワークが、地震を契機に新たに生み出されたり、活動を活発化させた様子をみていく。こうした地縁型およびテーマ型の団体の重層的なありようが、防災・減災コミュニティの可能性を開くということを論じたい。
第5章では、新潟県の各自治体が、隣県の福島県を中心に東日本大震災と原発事故による多くの避難者を迎え入れてきた事例を採り上げる。とくに過去の地震等で被害が大きかった長岡市・小千谷市・三条市・柏崎市において、行政や民間の関係者から聞き取りをおこなってきた。それぞれが、工夫を凝らして熱心に避難者受け入れに取り組んでいること、そこにこれまでの被災経験が生かされていることに注目したい。前章までに採り上げたいくつかの団体も、それぞれ避難者の支援活動をおこなっている。また少数ではあるが、避難者自身からもお話をうかがってきた。そこに含まれる重い内容からも、目を背けることはできない。
最後に終章で、「つながり」を軸に全体の議論を振り返ったうえで、今後の課題についていくつか考えてみたい。
新潟日報 2011.11.10
「中越・中越沖」教訓伝える
松井新大教授が出版
震災復興を後押し
中越・中越沖地震の被災者への聞き取りや、東日本大震災による避難者の受け入れ状況を調査してきた新潟大人文学部の松井克浩教授(災害社会学)が9日、「震災・復興の社会学 2つの中越から東日本へ」を出版した。地域やボランティアなど、人とのつながりが復興に欠かせないとしている。
中越沖地震翌年の2008年夏から今夏にかけて行った聞き取りやアンケート調査を基にまとめ、東日本大震災の被災地に被災経験と教訓を伝えている。
中越地震では仮設住宅に集落単位で入居。故郷で住宅再建するか、集団移転するかなどを外部の支援者も交えて話し合いを重ねた。中越沖地震では、町内会がボランティア窓口や自主避難所の開設などを通して地域のつながりが強まった事例を取り上げた。
地震や水害で被災した県民が経験に基づき、東日本大震災の避難者を支援したケースも紹介した。
「地縁だけではない人のつながりを結び直すことが東日本の被災地でも有効」とする松井教授は「女性や若者、地域外の人も含めた層が復興の鍵を握っていることを伝えたい」と話している。
毎日新聞(新潟版) 2011.11.15
「震災復興の一助に」
中越での体験談や、避難者支援取り組み紹介
新潟大松井教授が本出版
新潟大学の松井克浩教授(49)=災害社会学=が中越地震(04年)、中越沖地震(07年)や東日本大震災避難者の県内での受け入れについてまとめた「震災・復興の社会学 2つの『中越』から『東日本』へ」(リベルタ出版)を出版した。松井教授は「新潟県が経験した地震や被災者支援を被災地や他の地域に伝えたい」と話す。
本は254頁で5章構成。1章では中越地震をテーマに長岡市山古志集落の復興や小千谷市の十二平集落の集団移転などについて扱い、2章で災害対応時の女性の役割の重要性を指摘。3章で中越沖地震被災者へのアンケートを、4章で柏崎市の地域コミュニティーをそれぞれ取り上げ、5章で県内自治体の震災避難者支援の取り組みを紹介した。
松井教授は3年間、自治体の担当者や被災者らに調査をし、4カ月かけて執筆した。「福島第1原発事故で生活の見通しが立たず、放射線への不安から県内に母子避難する人も多い。サポートする仕組みづくりが必要」と話し、本が震災復興の一助になればとの願いを込める。価格は2200円(税抜き)。【畠山哲郎】
新潟日報(読書欄) 2011.12.18
「にいがたの1冊」
中越、中越沖の記憶を力に
本書の著者、松井克浩氏の専門は社会学である。博士論文は「ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)の研究−諒解・意味・重層性」という題目である。いかにも難解である。ドイツ語の分厚い書籍と机上で格闘する理論家肌のイメージである。しかしその一方で、農業の跡継ぎ問題など、現実社会に対する目配りもしてきた。そしてこの数年は、災害という実際問題にいっそう深くかかわるようになった。
そのきっかけは、おそらく身近に経験した中越地震・中越沖地震だろう。著者はその後、学生とともに被災地に足を運び、慎重な態度で現場の話を聞いてきた。
新潟県の2つの大震災からあまり間をおかずに発生した東日本大震災が著者に与えたショックも甚大だったと思う。というのも、著者は新潟生まれで新潟大学の教授であるが、育ったのは宮城県の女川町である。おそらく、故郷はどこかと問われれば、女川と答えるはずである。その女川は津波で大きな被害をこうむった。たくさんのかたが亡くなり、半数を超える建物が全壊した。
著者にとって、中越の2つの大地震と、このたびの東北の大震災は、ともにかかわりの深い地域へのダメージであった。〈2つの「中越」から「東日本」へ〉という本書の副題には、並々ならぬ思いが込められているはずである。しかし、その思いは抑制され、淡々と中越地区の被災者の声を整理し、たくましい復興の様子を描いている。そしてそこには、2つの「中越」から「東日本」に引き継ぐぺきメッセージが込められている。
本書のキーワードは、「女性」と「地域の絆」だと思う。震災と復興の過程を女性の視点から捉えた第2章は、他書にはない貴重な記録である。防災の住民組織ができても主要メンバーは男ばかりで、女は炊き出し。こういう窮屈な役割分担が女性のみならず男性にも枷(かせ)となり、復興の妨げになっていたことが明らかにされている。地域の絆については、山古志のふるさと回帰と十二平の集団移転の対比が目を引いた。結果としての形は違うが、ともに地域が団結して絆を守ったのである。三陸の津波被害地の高所移転がこれらの事例から学べるところは多いと思う。
あとがきで著者自らが語るように、本書は復興の処方箋を描く実用書ではない。中越地震・中越沖地震の被害と復興の記憶を書きとどめた記録である。しかし、今だからこそ、本書に記された中越の記憶に学ぶ価値がある。
阿部恒之(東北大学教授)
出版ニュース 2011.12下旬号
新潟県を襲った04年の中越地震と07年の中越沖地震で壊滅的な被害を受けた山間地の集落が再生にむけてどう歩んだのか。あるいは災害時、地域のコミュニティはどう変化したのか、東日本大震災のとき、新潟県の各自治体、なかでも2度の地震で被害を受けた自治体では熱心に県外避難者の受け入れの取り組みを行ったわけは何か、といった問題に答を出そうとしたものが本書。
結論からいえば、集落の再生では「まとまり」が再生に向かう人々の支えになったこと、2度の地震の被災経験を生かして、「おもてなしと自立」のバランスに配慮しつつ、熱意をもって避難者を受け入れていたことが明らかになっていく。例えば、小千谷市は民家に宿泊してもらう「民泊」を実施し、1週間後に一次避難所の総合体育館に移動してもらい、三条市では至れり尽くせりになると、むしろ被災者のためにならない面があることを意識して支援が行われていた。
ふぇみん 2012.01.15(No.2978)
本書は東日本大震災を体験した今、過去の災害(中越地震、中越沖地震)におけるコミュニティの経験と課題を探る。
1章では中越地震によって壊滅的な被害を受けた山間地の集落が既存組織を生かしながら再生した経緯をたどる。
一方で災害時に女性の視点がどう生かされたかを2章で探る。長岡市のグループは震災後ジェンダーを意識しつつ、勉強ではなく日常感じていることを話し合い「お互いに迷惑をかけてもいいじゃん!」という言葉が出てきたという。その後、地域防災計画の見直しに女性の視点を入れたという。さらに中越沖ではコミュニティセンターの主事である2人の女性が活躍した例を紹介する。
今、地域の既存組織以外の、テーマ型・ネットワーク型のつながりを地域にどう取り込むのかが課題として見える。そのどちらでも女性そして若者の力に地域の将来がかかるという本書の主張を丁寧に受け止めたい。(衣)
図書新聞 2012.03.31(No.3056)
中越地震・中越沖地震の被災者と
被災コミュニティの経験をたどる
助成が力を十分に発揮できる環境づくりが急務
宗近藤生
昨年の3・11東日本大震災発生後、メディア媒体は、様々なかたちで95年の阪神・淡路大震災を例示して報道していたように思う。被害規模の大きさからの対比なのかもしれないが、04年の中越地震(M6・8、最大震度7)、07年の中越沖地震(M6・8、最大震度6強)の惨事例を忘失したかのような印象を持ったのは、わたしだけではないはずだ。特に、中越沖地震では、東電柏崎刈羽原発で火災が起きて、稼働停止状態に陥っている。いま振り返ってみると、放射性物質漏れを過小報道されたのではないかと疑念が湧いてくる。ともかくも、震災対応、復旧・復興モデルとして、地形的な差異(津波被害がなかったという違い)はあれ、直近の例として参考にすべきことは幾らでもあったのではないかと思えたのだが、行政サイドも含めて事後の過大さにパニック状態に陥っていて、振り返ることはなかったといっていい。
本書の第5章「経験をつなぐ−東日本大震災と新潟」でも詳細に報告されているが、原発事故のため避難を余儀なくされた福島県の住民を、隣接県ということもあるが、新潟県は長岡市を中心に多くの人たちを積極的に受け入れている。まさしく、"二つ"の大きな地震の経験が生かされたことをそれは示していることになる。著者は、「『人と人とのつながり』という視点を基軸として、中越地震・中越沖地震の被災者と被災コミュニティの経験をたどっていくこと」を本書のモチーフにしている。確かに、災害というものは、地域の共同性を直撃するものだ。復旧・復興とは、個々の人たちの生活権を回復させることだけではなく、長年住んできた地域コミュニティをも再構築していくのでなければならないはずだ。
本書は、時間をかけて、被災者への丹念なアンケート調査の結果を踏まえた、復旧・復興の現況分析によって、わたしたちに多くのことを示唆してくれている。なかでも、第2章「災害とジェンダー」は、特筆すべき章だ。「地域の人間関係も女性の方がつくりやすい。男性は仕事をリタイアすると家に『引きこもる』人も多い」から、「地震の後でも、地域の中でどちらかというと『女性の方が元気がよかった』」にもかかわらず、「地域の町内会レベルでは、なぜ女性のリーダーが少ないのだろう」と著者は述べていく。このことは、女性は家の中にいるべきだという保守的観念による差別化を意味しているわけだが、災害時という緊急事態こそ、フットワークの良さが求められることを考えてみれば、女性の方がふさわしいのは明らかだ。
リーダーというものは、町内会長といった皮相な権威あるものをいうのではない。様々な作業をスムーズにコントロールしていく大事な立場を指しているのだ。本書では幾つかの女性たちの活動を紹介しているが、その中で、「地域をまわってサロンを開いたり、子育てフェスティバルというイベント」などを行っていた「三尺玉ネット」というグループの報告は、印象深かった。中越地震が起きた翌日から積極的に支援活動をしていったのだが、その時の経験から気づいたことがあるという。つまり、「支援というのは、一方的に助けてあげることではない。相手から学び、結果的に相手の力を引き出すことが、支援につながる」ということだった。復旧・復興のプロセスというものは、予算を組んで行政がただ縦割り的に差配していくことではない。そこに、きめ細やかな人間関係への配慮がなければ、被災者側にも立ち上がる膂力が湧きあがらないものなのだ。ボランティア活動にしても、無償の行為だから尊いのではない。関係性の中に入りそこで喚起しあうことによって初めて様々なことが動き出すといえる。
「復興に向けた議論をしていくためには、地縁的なコミュニティの役割のみでなく、テーマ型・ネットワーク型のつながりを地域の中に育み、活性化させていくことも重要である。(略)いずれのつながりにおいても、女性がその力を十分に発揮するべきである。」
その通りだと思う。もう少し強調していえば、「女性がその力を十分に発揮」できる環境を、わたしたちがつくりだしていかなければならないということになる。
(フリージャーナリスト)
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